ねこ館長日記

月別アーカイブ: 2015年4月

一茶と善光寺⑧「藤屋御本陣」

藤屋

心からしなのゝ雪に降られけり 文化句帖 文化四年

 藤屋は江戸時代前期の慶応元年(1648)創業で、北国街道善光寺宿の本陣を務めた格式高い旅館です。

 文化4年(1807)11月4日、父の遺産交渉のため帰郷した一茶は、柏原に入る前に藤屋に一泊。翌日柏原に入りますが、遺産相続をめぐる確執から村人に冷たくあしらわれ、この句をよみました。

 江戸への帰路、頼みにしている門人滝沢可候に会いに行き、連れだって可候の弟、大門町の柯尺宅(こちらを参照)に泊まりました。翌日、傷心の一茶をなぐさめるためか、可候は10㎞もはなれた南原(川中島)まで一茶を送ってくれました。

プレットロ・ロマンティコ演奏会

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4月25日・26日の2回にわたって、一茶記念館でプレットロ・ロマンティコによる歌とマンドリンオーケストラの演奏会が開催されました。

同オーケストラは、名古屋市を中心に活動されている団体です。実は、創始者で日本のマンドリンの大家であった中野二郎氏は、童謡「一茶さん」の作曲者でもありました。今回はその縁で、一茶記念館で演奏会をしていただくこととなりました。

現在の指揮者は、中野二郎氏のご子息中野雅之さん。今回は一茶さんに扮していただき、童謡「一茶さん」をはじめ、「ふるさと」や「牧場の朝」といったなつかしい歌唱曲や、マンドリン合奏曲などを披露していただきました。

一茶記念館の研修室は音響効果のあるホールではありませんが、それでも十二分に美しく響くマンドリンの音色と歌声に、来場した皆さんも魅了されていました。

一茶と善光寺⑦「滝沢柯尺宅跡」

門前農館

雪とけて町いっぱいの子どもかな 浅黄空 文化二年

 一茶の門人のひとりに滝沢柯尺(かせき)がいます。兄は、飯綱町毛野の豪農滝沢可候、弟は高山村紫の久保田家に養子に入った久保田春耕で、いずれも一茶の有力な門人・支援者です。

柯尺は、大門町にうつり住み、善光寺の寺侍として行政手腕を発揮するかたわら、松屋という屋号で酒屋も営んでいました。八十二銀行大門町支店の斜め向かいにある「門前農館」の場所が、宅跡だと言われています。一茶は善光寺を訪れるたびに、この家に顔を出したり宿泊しています。

冒頭の句は、一茶が江戸俳壇引退の記念に出版した本「三韓人」に柯尺の作品として出てきますが、実際には一茶が、自身の有名な俳句「雪とけて村いっぱいの子どもかな」を少し変えて、柯尺のために代作したものです。

一茶と善光寺⑥「世尊院」

世尊院

ねはん像銭見ておはす皃(かお)も有 七番日記 文化十二年

 仲見世通りのちょうど中ほどから東側に道を折れたところにある世尊院。その本尊、重要文化財に指定されている銅造釈迦涅槃像は、鎌倉時代末期の作で、涅槃像としてはきわめてめずらしい等身大(166㎝)です。江戸時代、善光寺の前立三尊像とともに回国開帳で全国をめぐり信仰を集めました。

 善光寺御開帳の期間中は、世尊院の前にも回向柱が建ち、普段は特定の日しか拝観できない涅槃像も拝観することができます。ぜひ立ち寄ってみてください。

 冒頭の俳句は、一茶らしく、涅槃像の前のお賽銭をユーモラスによんでいます。

一茶と善光寺⑤「徳本碑」

徳本碑

雀子も梅に口明く念仏哉  文化句帖 文化元年

 徳本(とくほん)上人は「木喰(もくじき)」という、穀物を断つ一種の断食修業を行った浄土宗の僧侶で、一茶の時代に全国的に崇拝を集めていました。

 文化13年(1816)4月、徳本は善光寺周辺の浄土宗の寺、西方寺、寛慶寺に滞在。信仰心の厚い一茶は、4月22日に寛慶寺に出かけていき、徳本に「十念」(南無阿弥陀仏と十回唱えること)を授かっています。 一茶は文化元年(1804)3月江戸本所の霊山寺でも徳本に十念を授かっていて、その時よんだのがこの句です。

 写真の、独特の書体で「南無阿弥陀仏」と書いた徳本碑は、徳本が布教した各地につくられ、善光寺、西方寺、寛慶寺をはじめ、長野県内だけでその数は181にのぼります。善光寺の徳本碑は、本堂の西側、善光寺史料館へと向かう石畳の道の入り口にあります。

一茶と善光寺④「戒壇巡り」

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かいだんの穴よりひらり小てふ(ちょう)哉 七番日記 文政元年

 善光寺本堂内の階段をおりて、くらやみの中を進み、瑠璃壇の下をめぐる「戒壇巡り」。ご本尊の真下にある錠前にさわると、極楽往生が約束されるといいます。これを一茶は俳句にしました。

 図は『二十四輩順拝図会』内の「善光寺朝参りの図」の一部で、戒壇の入口の様子が描かれています。枠内には「かいだん廻(めぐ)り」と記されています。同図会は、享和3年(1803)、一茶41歳の頃刊行されており、現在の戒壇巡りとあまり変わらない様子だったことがうかがえます。

 しかし、天保2年(1831)作の『北国一覧写―越後・信濃・上野・武蔵』には、本堂の軒下、つまり屋外の入り口から直接入って戒壇巡りをする様子が描かれており、また、現在の戒壇は昭和5年に改造されたものと言われているため(長野市史より)、一茶が目にした戒壇巡りがどのような姿であったのかは、はっきりしません。

一茶と善光寺③「親鸞松」

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蝶行やしんらん松も知た顔 七番日記 文化十五年

 善光寺本堂の正面左手に、松の枝を手にした親鸞聖人像が建っています。この像は、浄土真宗を開いた親鸞聖人が、善光寺を訪れた際に松の枝を奉納したことにちなんで、昭和12年に建てられました。

 また、これに由来して本堂の外陣には昔から松が生けられていて、「親鸞松」と呼ばれています。

 一茶はこの松を見て「親鸞」と「知らん」をひっかけて句をよみました。

一茶と善光寺②「落書き」

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知た名のらく書見へて秋の暮 文政句帖 文政五年

 文政5年8月29日、60歳の一茶が善光寺を訪れ、ふと本堂の柱を見ると、そこには2日前の日付で長崎の友人の名前がありました。一茶が長崎を訪れたのは30年も前の事で、わずかの差で、なつかしい友人との千載一遇の再会を逸してしまったのです。そんな無念の気持ちを一茶は俳句によみました。(文政句帖によります。文政版『一茶発句集』では、1日前の出来事とし、俳句の前五が「近づきの」になっています。)

 善光寺ではかつて、訪れた人々が記念に柱や壁に落書きをしていました。現在は大半が消されてしまいましたが、山門の二階に上ると、幕末頃の落書きが今でも壁いっぱいに残されています。(写真は善光寺山門)

一茶と善光寺①「善光寺」

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そば時や月のしなのゝ善光寺 七番日記 文化九年

企画展「一茶と善光寺」に合わせて、今回からシリーズで、善光寺周辺の一茶ゆかりの遺跡や出来事を、一茶の俳句を交えながらご紹介していきます。現在開催中の善光寺御開帳にお越しの際に、より深く、一層お楽しみいただけると思います。

冒頭に掲げた一茶の句は、信州の三名物、「更科そば」、「姨捨の月」、「善光寺」をよみこんだお国自慢の句です。仏教への信仰心が篤かった一茶は、善光寺へも何度も参拝し、たくさんの俳句を詠んでいます。一茶の俳句や日記の記述からは、当時の善光寺周辺の様子を知ることもできます。

次回以降、まずは善光寺についてご紹介します。