ねこ館長日記

月別アーカイブ: 2015年5月

「四季の一茶」展示替えを行いました

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雪とけて村一ぱいの子ども哉

一茶記念館の2階で開催している企画展「四季の一茶」。一茶の俳句を、一茶研究家の矢羽勝幸先生の解説と庄村友里さんのかわいらしいイラストでご紹介しています。

今回は3月から展示していた20句を新しく入れ替えました。有名な俳句から、あまり知られていないけれど、一茶らしく楽しい俳句まで、色々なものを紹介しております。ぜひご覧ください。

一茶と善光寺⑫「康楽寺と往生寺」

康楽寺2

花咲くや在家のミダも御開帳  浅黄空 文化十三年

 康楽寺は、寛慶寺、西方寺とともに善光寺三寺として重んじられた寺です。長野市篠ノ井塩崎にも同名の康楽寺があり、この寺の本家筋にあたります。塩崎の康楽寺は一茶の父の葬儀をとり行った、一茶と縁のあるお寺です。

 文化13年(1816)3月、一茶は上原文路(こちらを参照)宅に泊まり、往生寺で一人でお花見をし、康楽寺をおとずれました。康楽寺では、飯綱町平出の彦坂藤兵衛が家で祀っている親鸞聖人真筆の九字名号(くじみょうごう)「南无不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」のご開帳が行われていて、それを一茶は俳句によみました。

往生寺

さく花の開帳に迄逢にけり  七番日記 文化十三年

 往生寺は刈萱上人と石童丸の伝説ゆかりの寺です。善光寺北西の急斜面の山腹にあり、境内からは長野市内が一望できます。一茶も何度も訪れています。この句は上述の往生寺で花見をした際によんだもので、「開帳」は善光寺ではなく、康楽寺での開帳を指しています。

 境内には平成15年に一茶句碑が建てられています。「 花の世は佛の身さへおや子哉」、「蝶とぶやしんらん松も知った顔」、「花さくや伊達にくはへし殻きせる」(全て文化15年作)がほられています。

一茶と善光寺⑪「仲見世通り」

仲見世

重箱の銭四五文や夕時雨 八番日記 文政二年

朝霜やしかも子供のお花売 八番日記 文政三年

 現在仲見世通りがある、善光寺仁王門から山門の間は、江戸時代は「堂庭(どうにわ)」と呼ばれていました。お寺の境内という扱いであったため、江戸時代は常設の商店が許されず、仮小屋で営業していました。土産品のみならず、さまざまな日用品も売られ、香具師による興行まで行われていました。

 冒頭の重箱の句には「善光寺門前憐乞食」と前書があり、時雨が降る寒い夕方、銭を満足に得られないホームレスの姿をよんでいます。また、お花売の句は、霜が降りるような寒い朝に、本堂の前でお供えの花を売る子どもの姿です。

 善光寺には、仏の慈悲と参拝客を求めてさまざまな人が集まりました。その中でも特に立場が弱い人々を、一茶は共感をこめて見つめました。

大盛況一茶まつり

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5月5日子どもの日は小林一茶の誕生日。一茶記念館周辺では毎年恒例の「一茶まつり」が開催されました。当日は好天に恵まれ、ご覧のように大盛況。特に今年は子どもさんの来場者が例年に増して目立ちました。

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一茶記念館の館内では、全国小中学生俳句大会の表彰式も行われ、横川町長から、特選に選ばれた皆さんに賞状と記念品が贈られました。写真は地元の信濃小中学校4年生が童謡「一茶さん」の斉唱を元気に披露しているところです。

一茶と善光寺⑩「酒饅頭つるや」

まんじゅう屋

それおもんみれば秋風あきの露  離山神社俳額 文政三年

 酒饅頭つるやは安永8年(1779)、一茶15歳、ちょうど江戸に奉公にだされたころに創業しました。ほのかに麹の風味がする、ふんわりした酒饅頭は、昔ながらの製法を伝える上品な味の一品です。

 この饅頭屋の三代目(養子)の宮沢武曰(ぶえつ)(1783―1843)は、一茶と同時代に活躍した俳諧師でした。武曰は当時東北信地方でたくさんの門人を従えていた千曲市戸倉の俳諧師宮本虎杖(こじょう)(1741―1823)の高弟で、自身も善光寺門前を中心にたくさんの門人を従えました。

 武曰は一茶とも親しい関係でした。文政3年(1820)に長野市松代の離山(はなれやま)神社の俳額奉納で、虎杖、その子の八朗(はちろう)とともに一茶と武曰が選者をしていたり、一茶関係の撰集に武曰の句が出てきたり、手紙のやりとりも見られます。

 善光寺の東側にある城山公園内の彦神別神社付近には、武曰の句碑もあります。これは天保11年(1840)に武曰の門人たちにより建立されたものです。

※おもんみる(惟る・おもいみる)=よく考える、思いめぐらす

一茶と善光寺⑨「上原文路宅跡」

北島書店

うつくしや障子の穴の天の川  志多良 文化十年

 善光寺仁王門の裏手を右に折れ、300メートルほど進むと、写真の北島書店があります。ここは旧北国街道の道筋で、新町と呼ばれる地区でした。

 現在の北島書店の場所は、一茶の門人で薬種商を営んでいた上原文路の家でした。また、その向かいには、文路の縁で一茶の門人となった小林反古の家もありました。文路の家は一茶が善光寺界隈を訪れる際の定宿でした。また、一茶が江戸等に手紙を出す際に取り次ぎもしています。

 文化10年(1813)6月、一茶はお尻に「癰(よう)」という悪性のできものができ、痛みと高熱に苦しみました。この時一茶は文路の家で75日間にわたり寝込んでいます。一旦は死を覚悟するような病状でしたが、なんとか回復することができました。

 冒頭の天の川の句は、寝込んでいる間の七夕の日に、できものから膿が出て、回復に向かった際によんだ句です。

 寝込んでいる間、弟や親戚に加え、門人たちも方々から、まんじゅう、せんべい、こんぺいとうといったお菓子や、そばなどのお見舞い品を持参して駆けつけています。また、何人も医師が呼ばれ、代わる代わる一茶を診ています。とてもにぎやかな病床で、手厚い看病をうける姿からは、一茶の人望がうかがわれます。